ここ1年以上、ずっとオリンパスのデジタルカメラ E-3を使っている。もともと、CONTAXの35mm、AXで初めて自分で一眼レフを購入して以来、いろいろなカメラを使ってきたが、オリンパスを使うのは、このカメラが初めて。デジカメは、最初にCanon 5Dを使ったが、カメラ自体の出来がなんというかCONTAXと違いすぎた。もちろん、だからあの価格でフルサイズができたわけだし、画質的には、十分なものだった。
何が問題かというと、写真を撮るの回数が減ってきたことだ。これがカメラの問題なのか、フォーマットやデジタルの問題なのか、私の興味の問題なのか、特定できるものではないが、あまり写真を撮るということに興味が薄れていく感じがした。
カメラやレンズによって、撮影できるものが変わってくることは、いかにも素人的であるが、ただ写真を撮るだけで写真を撮るわけではない。
で、カメラを思い切ってオリンパスにしたのが、昨年の冬のことであった。
で、今回は、なぜオリンパスなんだというお話。フォーサーズというフォーマットについての私の考えについて。
フォーサーズは、フルサイズの1/4の撮影素子の大きさしかなく、かつ、カメラ自体の大きさは、それほど変わるものではない。またそのレンズは、本来は1/2の大きさになるはずであるが、そうなっていない。相変わらずの大きさである。
これには諸説あるが、もっともらしいのは、光学的な制約によるもの。デジタルでは撮影素子の周辺の光量が問題となるため、周辺でも光量が十分となるために、撮影素子の周辺までレンズから光が真っ直ぐに入射するようレンズを設計しているという理由。(テレセントリック)
その結果、バカでかいレンズを作っているわけだが、私は、この逆立ちしたところが、CONTAX-ZEISS的で気に入っている。
私は35mmフィルムでの撮影は、ある意味、贅沢だと思っていた。なぜ、わざわざ小さなフォーマットを使い、フォーマットの限界に挑むようなレンズを使って写真を撮るのか。CONTAXは35mmフィルムで中版のような写真を撮るシステムだったが、よく考えれば、それなら最初から中版で撮れば良いのであって、そのために中判なみの大きなカメラとレンズを使って35mmで撮影するのは、倒錯している。
その倒錯の象徴は、CONTAX Nのレンズである。このシステムのレンズは、デジタル対応を念頭に置いたためか、645のレンズ並の大きさになっており、私は笑ってしまった。100mmのマクロゾナーと645のアポマクロプラナーは同じぐらいの大きさである。
画質の追求のためには、レンズの大きさや重さは制約としないのは良いとしても、こんなレンズ誰が持って歩けるのかと。これなら、最初から645で良いのではないか。ZEISSが妥協してくれなかったということかもしれないが、画像の周辺まで光を届けるには、これぐらいの大きさが必要なのだろう。しかし、その後、35mmフルサイズが一般化した今日においても、こうした巨大なレンズはどのメーカーも作っていない。
オリンパスのシステム、とくにレンズ群の普通でない大きさは、CONTAX Nの正統な後継であることを宣言しているようだ。私は、14-35mm/f2や35-100mm/f2を使うが、これらの大きさは、並の35mmレンズよりも巨大だ。(もっともf2ズームという明るさも原因の一つであるのだか)
この画質に拘る転倒は、写真というものがそもそも逆転したもの(像自体が逆さだ)であることを意味しているようで、メーカーの過剰な意志を感じる。
フィルム時代から、オリンパスには、f2に拘ったり、その結果、250mm/f2という狂ったレンズを作ったり、やや変なところがあった。(f2、ISO100だと、50mmレンズで夕暮れでもぎりぎりシャッターが切れるということだろうか。焦点距離によって、必要なシャッタースピードは異なるはずだが)
カメラを産業として考えた場合、大抵はカメラが主でレンズが従である。カメラメーカーがレンズを作っていても、レンズメーカーとは言わないし、実際、オリンパスでもレンズ設計者よりもカメラ設計者の方が有名である。(オリンパスペンを作った人は知られていても、そのレンズを設計した人物はあまり知られていない)日本光学でも、カメラの出来映えに比べ、突出したレンズは聞かない。(バランスとしては、ライカがカメラとレンズのバランスが良いが、ライカの35mmフォーマットの利用がそもそも、レンズ性能を高めることにつながった。高性能なレンズで小さなフォーマットで鮮鋭な画像というコンセプトは、フォーサーズのコンセプトと同一である)
一般に、レンズはカメラのためのレンズシステムであり、レンズのためのカメラシステムではない。カメラかレンズかという論理は、どういう論理なのだろうか。
ZEISSの面白いところは、これとは逆で、おそらくZEISSだけが、レンズのためにカメラがあると考えていた唯一のメーカーであったと思う。(そういう意味でコシナツァイスのマルチマウント化は間違っている。ZEISSはカメラのためのレンズ供給者ではない。レンズのためのカメラなのだ。)
CONTAXは、35mmフォーマットでのZEISSレンズのためのシステムであったわけだ。だから、レンズが重かろうが、大きかろうが、それはレンズの責任ではない。カメラではなく、レンズ中心の考え方、レンズが生命を持つという考えで、カメラシステムをとらえた唯一のまともなシステムであったように思う。
フルサイズについて、CONTAXのレンズは良く写る。私は、デジタルでもう一度、フィルムで写したようなPlanar 55/1.2の描写を見たい。だから、フルサイズ自体を否定するつもりはないが、ただ、ボディでレンズの収差補正をしてというのは、悲しい気持ちになる。
結果が変わらなければ、という考えもあるが、デジタル対応を謳ったレンズのアサヒカメラのテスト結果を見ていると、フィルムだと使えるレベルにないものがある。解像度もコントラストも歪曲も補正するなら一緒という考え方もあるが、概念とはいえ、曲がった光を見て撮影すること自体、レンズの否定だと思うからだ。(かえって光学的に複雑な収差補正をしないレンズの方がソフト的には補正しやすいという逆説もあるようだ)
フィルムもデジカメも光そのものを画像にしているわけではない。そこに味付けがあり、加工があるわけだから、光自体というのは回顧的な考えと一蹴できなくもない。確かに、光そのものを見ているわけではなく、フィルムや撮影素子、現像ソフト、我々の脳というフィルターを通じて、私たちは光を画像に再構成して見ている。
レンズというのは、その過程での一つの行程に過ぎない。フィルム時代には、その後行程に制約が多かったから、レンズが重要な写真のファクターであったが、デジタルでは、全体の行程の一つに過ぎない。むしろ、後処理の裁量の方が大きい。デジタル的な論理としては、間違っていない。
レンズが他の行程と異なるのは、私が何を見て、何を感じて写真を撮るかにある。私が見ているのは、レンズがファインダーを通じて写し出す絵であり、その絵を感じてシャッターを切る。私が被写体を探す目は、私の目が見るものではなく、レンズを通して見るものだ。
一眼レフという仕組みが魅力的なのは、私の目と違った絵をレンズを通して見るからではないか。出来上がった写真ではなく、私が見るものとして、レンズが私と被写体との出会いを媒介するのであり、ゆえにレンズは写真において特別な存在だと思っている。
私は、レンズの神秘主義と呼んでいるが、レンズと撮影者には、何らかの意志疎通があるように思っている。レンズが撮影者に働きかける。そう、意志がレンズにあるかのように。レンズでも慣れてくると、写し出す像が変わってくる経験、そのレンズの癖がわかったという類のものではなく、描写自体が違ってくることがある。そんなバカな、と思うかもしれないが、レンズには力があるのだと思っている。(私は神秘主義者ではない。だから、この現象はレンズの神秘主義と呼んでいる)
撮影結果が変わらなくても、良いレンズで撮影することは、私と被写体とを繋ぐ機会を増やすと思っている。写真において、もっとも大事なのは、この出会いにある。
レンズが意志を持つという概念を認知すること、レンズの位置づけとして、被写体と撮影者の媒介としてのレンズの力を感じるようになる。
デジタルカメラは、カメラというよりも、撮影素子に近くなってきている。昔で言えば、フィルムに近い。フルサイズかフォーサーズかというのは、67か35mmかという選択に近い。だから、その選択にフォーマットの大きさが問題になるわけではない。むしろ、この選択の問題は、より本質的には、カメラかレンズかという問題だろう。フルサイズできちんとしたレンズを作ったら、それで良いのだ。
カメラは身体の延長であり、私たちの意識のうちにあるものだ。それに対し、レンズは私と世界との狭間を繋ぐ位置にあり、意識と世界の間にある。カメラ重視の考えは、我々の思い通りに見たものを記録する点において、選択する理由を持つ。レンズ中心の考えは、身体が属する領域を逆転させ、身体が外部にあることを明示する。外部性との接触が写真の動機となっているわけだ。
事後的にものを見るか、事前にものを見るか。見えるものを記録するのか、見えないものを写し出すのか、写真の目的によって、その選択は異なることになる。
レンズとカメラの関係から、オリンパスのシステムを見ると、現在のカメラメーカーでは、唯一、レンズ側に力点を置いているように思う。オリンパスがカメラの誘惑に負けずに、この姿勢を貫き通して欲しいと思うのだが、いかがだろうか。
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