2009-05-09

写真集について 1

    このところ、京都を題材にした写真集を2冊購入した。1冊は正式には写真撮影地ガイドのようなものだが、この2冊なかなか面白い。

 この2冊というのは、水野克比古氏の「心象の京都」、竹下光士氏の「京都撮影四季の旅」だ。竹下氏の方は、どちらかと言えば、撮影地のガイドという側面があるが、写真のクオリィティは写真集でも通用する写真が多く掲載されている。(このガイドは並の写真集を簡単に超えている)

 京都に住んで京都で撮影しているものが、京都の写真集を購入するのは、これらの写真を通じて自分の写真を考え直すことができるかもしれないと思うからだ。同じ場所で他の人が何を見て、何を撮影するか。これほど参考になる本もないと思っている。

 さて、2冊であるが、水野氏の方は、ありのままの自然として京都を捉えている。水野氏の言葉を借りれば、「自然との共生」の観点から、京都の風景があると見ておられる。京都の寺院の庭が石の形や木々の配置により、大自然を模したものであるが、京都の内側から見れば、この考え方は共鳴できるところがある。

 京都の内の自然は、共生できるものであり、手をかけていようといまいと、根源では繋がっており、その模倣として庭風景がある。だから、寺院内であろうと野山であろうとそこに区別はなく、ひとつの自然として受け入れられる。

 一方、竹下氏の写真は、京都の自然は生の自然ではなく、手を加えた「自然」だという視点から京都の風景を撮影している。寺院にしろ野山にしろ、京都内の自然には、例えば命を脅かすような自然はほとんど存在しない。標高何千メートルという山奥の自然は、そこにはない。
 だから、京都の風景を撮る場合に、自然でない自然として撮影している。

 この考えは、例えば先日醍醐寺で「そうだ 京都に行こう」の写真展を開いた高橋氏とも通ずるものがある。東京駅や品川駅に行けば、「そうだ 京都に行こう」のポスターがシーズン毎に目に付くのだが、あの写真は事後合成ではなく、撮影時のセッティングで作っている。桜にライトをあて、クレーンでカメラを引き上げ、時には扇風機で煽る。

 竹下氏の場合は、被写体には手を加えていないのだけど、京都に対する目線が「人工的な自然」にある。

 この目線は、外から京都を見ている目である。私は、大学時代、東京で暮らしたが、久しぶりに京都に帰省すると、京都がなんともちっぽけな街に見えた記憶かある。外から京都を見ると、小さな都市でしかないのも事実だ。

 純粋にどちらの写真に惹かれるかというと、なかなか難しい面があり、竹下氏のはその撮影期間(多分、1から2年で撮影されている)などを考慮すると、実に格好がいい。同じ場所で撮影したところもあるが、こんなふうに撮れない。
 逆に水野氏の写真はかなりの年月に撮影したきたものからのカットであり、とくにこの写真集の写真のなかで当たる写真は、ふつうに撮っているようだけど、奥深いものを感じる。簡単に撮れそうなのだけど、生涯に多く撮れるものではない。

マイケル・ケンナの写真も悪くはないが、京都を題材にしたこの2冊、見比べてみるのも面白いと思う。

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