2009-07-01

新井千裕

の新刊が出たのは知らなかった。

 前作を読んでいて、次回作が出るとは予想していなかったので意外だった。

 新井千裕と聞いて、それが誰であるか、わかる人は少ないと思うので、そのあたりから話を始めたい。

 私が大学を卒業し、間もないころ、確かSPAの書評でこの作家のことを知った。「ミドリガメ症候群」という一風変わったタイトルの小説であったが、東京出張のおりに飯田橋の神楽坂横の本屋でこの本を見つけて以来、この作者の本を読み続けている。

 作者は元コピーライター出身で、群像の新人賞を受賞している。1980年代中盤以降の空気を感じる作風で、それは日本が日本でなくなった瞬間であると同時に、幸福が永遠に続くような瞬間であった。バブルが始まる前あるいはバブルの最中の東京のやや周辺(山手線の外)の雰囲気。

 作品の特徴としては、暗喩と繰り返しを用いながら、言葉と記号の間を蝶が舞うよな言葉遣いで、一つの物語を作る。
 
 確か「復活祭のレクイエム」という小説のなかで、「自由」について、

 自由とは言葉だ。金魚にとっての金魚鉢のようなものであって、金魚が金魚鉢の外で生きられないように、私たちも言葉の外で生きられるわけではない。

 という趣旨の内容を書いている。

 金魚にとっての金魚鉢としての自由という暗喩は、おもしろく、私が写真を撮る時の心構えのようになっている。私が写すのは、金魚鉢や金魚鉢に写る金魚の姿たという具合に。

 話がそれたが、作者はずっと年1冊ぐらい小説を発表していたが、途中でパッタリと新刊が出なくなった。

 作者のファンであった者としては、もう小説を書くの止めたのかと思って諦めていたが、2年ぐらい前に新刊が出て、まだ書く意志があることを確認できた。

 ただ、2年前に出た本自体、どこか出口のない内容で、これでもう書かないんじゃないかと思っていたところ、ネットで新刊が出ていたことを知った。

 で、早速、先週の土曜日に本屋に行ったところ、今回の「図書館の女王を探して」という新刊は、SFのとろに分類されていた。
 
 内容的には、リアルな話というよりも、空想的なものであるが、SFではないのだが。

 つまり、近未来的なもしくは非現実的なことを題材としているわけではなく、現実のなかのちょっとした亀裂をテーマとしているだけなのに、この本がSFに分類されていたのは少し驚いた。

 作者の過去の本と比べ、ネットでも書評がそれなりにあるようだが、これもこうした違うジャンルに分類されることによる効果なのだろうか。
 
 ある本屋ではSF、別の本屋ではミステリー小説として分類されているとすれば、日本文学 男性のあ欄に分類されるよりも、間口が広がるのかもしれない。

 この分類の仕方とネットでの書評数を見ていると、ようやく時代が少し違ったかたちでこの作者を受け入れるようになったかもしれないと思った。ファンタジーとしての受入れ方。

 ただ、小説などそもそも多かれ少なかれファンタジーなわけで、この分類の仕方自体はには違和感を感じる。ただ、そのことによって多くの読者を得るなら、それはそれで良いのかもかもしれないし、逆にファンタジーとして分類してしまう世界は昔よらも確実に狭くなっているのかもしれない。

 話が長くなったが、本作は亡くなった妻を空虚な中心として、そのまわりをいろいろな人物と言葉と記号が螺旋状にまとわりつきながら、最後には別の空虚な空間が現れるといったストーリーになっている。
 
 最初の方に、「手紙を出したら、忘れた頃に手紙がついた」と書いているが、こうした無邪気さを残しながら、確信犯的に忘れたころに小説を届けたのだろうと思う。

 想像するに本編は、ずいぶん昔に一度書かれていて、途中までいったところで、ほったらかしにされていたのではないかと思う。つまり、小説としては一度書き手が興味をなくしたものを、何かを機に推敲して書き直したような感じがする。
 
 また、この作者の持つユーモアが今回はどちらかといえば、シニカルに見える。笑える箇所はあるのだけど、少し言葉と笑いとの間に何かがつかえるような感覚だ。それも確信犯的に、そうしてるんじゃないかと思える。

 これは私が年をとったせいか、それとも作者が年をとったせいかわからないが、以前だと素直にケラケラと笑っていた部分で、素直に笑えないのだけど笑うという感覚なのだ。
(もう一人の自分が笑うという感覚)

 最後の長いあとがきのなかで、作者の近況が報告されているが、また忘れたころに、読者に手紙を届けてほしいと思う。少なくとも、多くの読者が作品を読むことや話すことで、変容していくことができるのだから。

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