について、一応解説。
今回は、フイルム時代の写真をもとに作成。カメラはCONTAX645が中心。撮影方法としては、レンズを積極的に開けて、アウトフォーカスを使った撮り方をしている。
フルサイズデジタルでも、その傾向は変わらないのだけど、その傾向は昔の方が顕著かもしれない。
紅葉について、いつも思うのは、それが冬を前にした木々の所作であること、これから落葉する葉っぱがその前に見せる姿であることが、その色彩と相まって美しいという感覚に結びついていることだ。
だから、春に紅葉している木々を見ても、私は特段、美しいとは思わない。
撮影場所は、京都であるが、別に京都でなくても良いかもしれない。ただ、もし京都であることの特徴として上げるものがあるとしたら、撮影された多くの木々が神社や寺院、あるいは散歩道など人間が管理している木々であるという点にある。
つまり、それらは、ありのままの自然ではなく、人間が植え、世話をしている木々である。京都の神社などの紅葉が、ただ自然の紅葉しているのではない。恐らく、神社にもよるだろうか、きれいに紅葉するようにきちんと手入れをている。また場所によっては、観光も意図したところで、意識的な対応をとっている。だから、毎年、美しく紅葉するのだ。
盆栽の大きなもの、という表現は言い過ぎかもしれいが、そうした視点で紅葉する木々を見ることは、単に自然の姿を見ているというよりも、おもしろいものがある。
見えるもの、見えないもの。見えない自然の姿を見ること。
ただ、このように管理された木々であっても、毎年、同じように紅葉するわけではない。個人的には、この写真をとっていた時期(今から5-7年以上前)の方が紅葉がきれいだったように思う。
また、何本かの木々は、伐採されたり枯れたりして、今はもうない。
撮影しながら、何を見ているか?
死の前に生はあるのか?というキャプションをつけているのは、未来=最終的には死という時間を含んだ現在、いま・ここを生きているか? そういう時間感覚のなかで、対象を見ているか? を意識している。
紅葉が美しいという感覚は、死を含んだ生という感覚を呼び起こすものなのだ。
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