写真は静止画であり、動画ではないというのは当たり前のことだが、写真を動かしてしまうPhoto cinemaのようなものが出てくると、このあたりの境界が曖昧になる。
映画か写真か。
哲学者のなかで、映画について語るもの、写真について語るものは分かれるように思う。ドゥルーズ、ジジェクは映画、バルト、ソンダクは写真。
一般論で、写真に魅力を感じるか、映画に魅力を感じるかというと、普通は映画の方ではないかと思う。撮影するのは写真の方が簡単だが、意識的に見るのは多分、映画の方が多い。
また、映画は基本的に人が撮影したものだが、写真は、報道的なものや広告的なものを除いて、自分が撮影した写真を見る時間が95%、他人が撮影した写真を見る時間が5%といったところだろうか。
写真と映画は見る立場からは違うものだろうし、撮る側からも違うものだ。
語る立場からしても、写真に比べ、映画を語ることは多い。個人の感想から評論家の評論まで。
一方で写真を語る人は、絵画を語る人よりも少ないのではないかと思う。
写真評論というのは、十分に成立しているようで成立していないのではないか。というと言い過ぎのようだが、写真それ自体の評価というよりも、写真がおかれている文脈について語ることになりやすい。
写真についての言説は、1.こうした写し方が良いとか悪いとかといった「写し方・撮影技術に関するもの」2.光がきれいだとか素晴らしいといった「写真自体の内容・写し出されたものに関するもの」3.この時はこうだったとか、ここに写っている人を知っているという「写真の外側で生じている事柄」
に分類される。
1.2.3.というは、撮影する側、撮影された側の概念の範疇にある。
それに対し映画は、撮影の意図を離れ、作品自体、作品のなかで生じている出来事についての言説である。あのシーンはこうだったとか、エンディングは良かったとか。
PhotoCinemaは、写真をもっと語れるものにする試みだと思う。言葉を添える、写真をつなげる、動かすといった修飾は、語ることを拒絶するかのような写真を語らせようとしているように見える。
この試みがどうなるか、雄弁になるのか、あるいは逆に語らなくなるのか、中間メディアとして興味深いものがある。
1 件のコメント:
フォトシネマは映画とフォト(静止画像)の中間に位置するのだろうという意見には同意です。まさしく名前のとおりかと。
しかし静止画も偽動画化してしまうと、製作者の意図どおりの解釈に狭められてしまい、鑑賞者にとって比較的自由な受け取り方が可能だった静止画像本来の良さがなくなってしまう感じがします。
写真の本来持っている多重的な解釈とか、細部を何度もなんども見ようと試みるとか、自身の想像力を働かせようとすることとか、そういう鑑賞者の能動的な知的行為をフォトシネマは映画的に切り捨てることになるのではありませんか。
映画も実は、DVDメディアなどで自分でデータを持っている場合、静止したりスローモーションにするとか、一部を何度も見るようなことで、けっこう写真静止画的に見ることが可能です。
とくに実録ドキュメントであれば、製作者の意図しなかった興味深い情報を動画からでも獲得することができますね。
それで映画もフォトシネマにも共通することは、製作者が意図するイメージの連続でもって視聴者に対して、知的ではなく情感的に訴えているように思えることです。
それで他方、リアル、リアリズムという写真の持っている一属性という観点からは、こういうのはちょっと離れているんじゃないかって私は感じています。
フォトシネマは写真をシネマ映像的に「語らせる」のかも知れませんが、(そういやあ写真俳句というのもありましたね)、しかし鑑賞する側の写真としての「読み取れる」能力ということでは退行現象になるのではという気がいたします。
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